有志による講話リレー

「信仰に生きる」
コリントの信徒への手紙二 第4章16~18節、第5章1~10節  赤塚 牧(東京都)

4章16節にある「外なる人」とは、私たちの肉体を指しています。それは、迫害や老衰、死によって腐朽する運命にあります。これに対して、「内なる人」はキリストの霊により新生される人であって、肉体の弱さと反比例して日々に新しい力を得て益々その新鮮さを増してくるのです。

17節には、私たちの命は永遠だけれども、この世にこの身であるのは、ほんの一時期のことですから、この内に出遭う
艱難は、その先にある永遠の栄光の重みと比べたら遙かに軽いと言わざるを得ないとパウロは言っています。
18節の見えるものは、栄誉、名声、幸福、安逸等この世に属する物を指し、見えないものは、心、命、霊や魂や
ダークマター、ダークエナジーというのもありますがこれらはみな神の被造物で人間には全容を捉えきれないものです。

5章1節。神が用意してくださっている建物は、永遠の住居、すなわち復活体を指しています(ヨハ14:2)。
また、人工物はいつか必ず壊れてしまうが、神が造った天のものは永遠に壊れることがなく続くのです。
2節。肉体は、この地上に生活するための一時的な存在で、この肉体のことを地球上で生活するための最適な服として
地球服ということが出来ます。そして、この地球服は、経年劣化したり、事故や病気で綻びが出てきて、やがて霊を
留めていられなくなり、死となります。しかし、私たちの霊が天に還ると、そこには復活体と呼ばれる新しい服が
用意されており、死んでしまうはずの肉体を持つものが、天で主と会い主と共にいつまでも過ごせるように用意された“朽ちないもの”なのです(Ⅰコリ15:53)。

3節。肉体を捨てて霊体を持てば、神の前に立つことができる。これは、キリストの栄光の体にあやかったものです。
この体を持つならば、罪人のままの醜い状態“裸の恥”ではないキリストを着た正しい者として神の国に迎えられると
いわれていました。
4節では、この肉体でこの世に生きる私達は、その不完全さと多くの迫害、艱難の為に重荷を負いうめいていますが、
それは、肉体を脱ぎ捨てて死んでしまいたいということではなく、むしろ、この肉体が栄光の体をもっておおわれたいと願うからです。すなわち、永世の体を与えられることが私達の願いなのです。

5節。不死の体を着られるようになったのは、私たちが真理の言葉や福音を聴いて信じたことによって聖霊で証印を
押され、神様の贖いによって罪が赦され、御国を受け継ぐことが出来るようになるからです。
9節。パウロの心はいかなる艱難や迫害の中にあっても主の御心に叶うようにする外はなかったのです。
10節。この身において行った事は、信者であっても皆その行為の善悪によってそれぞれの報いを受けなければならない。それだから私達の努力すべき点は、常に主の御心に適う事を行う事です。

最後に黒崎幸吉氏の考える【パウロの死生観】について、Ⅱコリ11:22-23にもあるように、パウロほどその生涯において艱難辛苦の数々を味わった人はいない。しかしながら、この確実な希望を握った以上、彼は少しも死を恐れなかった。
むしろイエスと共にいるためにはかえって死さえ希望していた。彼の死に対する考え方は、現世の苦痛に耐えかねたからでは無く、むしろイエスと共にいる喜びを味わうためであった。ゆえに彼は完全に死生を超越し、絶大なる艱難の中に
あってひたすらに主の御心に叶うことを務める事ができた。

4章16節にある「外なる人」とは、私たちの肉体を指しています。それは、迫害や老衰、死によって腐朽する運命にあります。これに対して、「内なる人」はキリストの霊により新生される人であって、肉体の弱さと反比例して日々に新しい力を得て益々その新鮮さを増してくるのです。

17節には、私たちの命は永遠だけれども、この世にこの身であるのは、ほんの一時期のことですから、この内に出遭う艱難は、その先にある永遠の栄光の重みと比べたら遙かに軽いと言わざるを得ないとパウロは言っています。
18節の見えるものは、栄誉、名声、幸福、安逸等この世に属する物を指し、見えないものは、心、命、霊や魂やダークマター、ダークエナジーというのもありますがこれらはみな神の被造物で人間には全容を捉えきれないものです。

5章1節。神が用意してくださっている建物は、永遠の住居、すなわち復活体を指しています(ヨハ14:2)。また、人工物はいつか必ず壊れてしまうが、神が造った天のものは永遠に壊れることがなく続くのです。
2節。肉体は、この地上に生活するための一時的な存在で、この肉体のことを地球上で生活するための最適な服として地球服ということが出来ます。そして、この地球服は、経年劣化したり、事故や病気で綻びが出てきて、やがて霊を留めていられなくなり、死となります。しかし、私たちの霊が天に還ると、そこには復活体と呼ばれる新しい服が用意されており、死んでしまうはずの肉体を持つものが、天で主と会い主と共にいつまでも過ごせるように用意された“朽ちないもの”なのです(Ⅰコリ15:53)。

3節。肉体を捨てて霊体を持てば、神の前に立つことができる。これは、キリストの栄光の体にあやかったものです。
この体を持つならば、罪人のままの醜い状態“裸の恥”ではないキリストを着た正しい者として神の国に迎えられるといわれていました。
4節では、この肉体でこの世に生きる私達は、その不完全さと多くの迫害、艱難の為に重荷を負いうめいていますが、それは、肉体を脱ぎ捨てて死んでしまいたいということではなく、むしろ、この肉体が栄光の体をもっておおわれたいと願うからです。すなわち、永世の体を与えられることが私達の願いなのです。

5節。不死の体を着られるようになったのは、私たちが真理の言葉や福音を聴いて信じたことによって聖霊で証印を押され、神様の贖いによって罪が赦され、御国を受け継ぐことが出来るようになるからです。
9節。パウロの心はいかなる艱難や迫害の中にあっても主の御心に叶うようにする外はなかったのです。
10節。この身において行った事は、信者であっても皆その行為の善悪によってそれぞれの報いを受けなければならない。それだから私達の努力すべき点は、常に主の御心に適う事を行う事です。

最後に黒崎幸吉氏の考える【パウロの死生観】について、Ⅱコリ11:22-23にもあるように、パウロほどその生涯において艱難辛苦の数々を味わった人はいない。しかしながら、この確実な希望を握った以上、彼は少しも死を恐れなかった。
むしろイエスと共にいるためにはかえって死さえ希望していた。彼の死に対する考え方は、現世の苦痛に耐えかねたからでは無く、むしろイエスと共にいる喜びを味わうためであった。ゆえに彼は完全に死生を超越し、絶大なる艱難の中にあってひたすらに主の御心に叶うことを務める事ができた。

「台湾とキリスト教」 那須 容平(大阪府)

私は一年前まで、台湾の日本人学校で教えていました。実際に行ってみて、生活してみて、キリスト教とのつながり、
この地を造られた神様が、台湾でも働かれておられるという事を知り、シェアできたらと思います。

お話したいのは八田與一(はったよいち)さんという方の事です。八田さんは土木技師で台湾の南にある嘉南平原に
烏山頭(うさんとう)ダムという大きなダムを造った人です。台湾の人達にとって日本に支配されていた50年は悲惨な
時期でもありましたが銀行、道路などのインフラが設営されました。このダムのお陰で飢饉、水不足、病気がなくなり、一帯が肥沃な大地となり、感謝されました。ダム建設は高額な費用が掛かりますが、丁度日本で関東大震災が起きて日本からの送金が途絶えました。台湾の人達は先ずは自分たちが首を切られるだろうと思ったのですが、八田さんは将来ダムを使うのは台湾の人達だという事で現地の人達をほとんど解雇せずに日本人を多く解雇しましたので、台湾の人から信頼を得ました。

八田さんはクリスチャンではないですが、背後にはキリスト教の考え方があったと思います。
彼が東大で土木を学んだのは、内村鑑三と札幌農学校で同期だった廣井勇という人です。廣井勇が亡くなった時、内村はお葬式で「廣井勇は北海道の小樽港を造った、この廣井勇の信仰はまるでダムの様に橋の様に本当に強固なものだった」と述べたそうです。廣井勇の言葉があります。「もし、工学が人生を煩雑にするのみならば、何の意味もない。
これによって数日要する所を、数時間の距離に短縮し、一日の労苦を一時間にとどめ、それによって得られた時間で、
静かに人生を考え、反省し、神に帰る余裕を与える事によらなければ、私達の工学は全く意味を見出す事は出来ない。」これを聞いた八田は、おそらく、自分たちがする土木工事というものは、本当に人の役に立たなければならない、
それに加えて、出来た時間が静かに神との関係に立ち帰っていかなければならないと廣井が伝えたかったことを受け止めたに違いないと思います。

廣井は真剣に、信仰に立って土木の技術を教えていたのです。そう考えると、八田與一が台湾でダムを造り、台湾の人達の事を考えて、功績を残したことが素晴らしいというだけでなく、この廣井勇の言葉から私たちは余った時間を
どう過ごすべきか、という事を考えなければならないのだと思いました。

八田與一と一日違いで生まれた人に、石川啄木がいます。
彼は、働いても、働いても豊かにならなくて貧しい中でじっと自分の手を見つめます。
石川啄木の反応と八田與一の反応は全く逆です。啄木が見たのは自分自身、啄木は大変だったと思います。私達は働いてできた時間で自分自身を見るのではなく、神様を見ないといけないと思います。

マタイ8章の百人隊長の話をします。彼は隊長だったから、きっと忙しかったのだと思います。そんな中、部下の一人が病気で死にかけており、イエス様に「只一言治れとおっしゃって頂けたら、自分の部下は治ります」と言った。
たとえイエス様が部下から離れていても、あたかも見えないチューブでつながっているかのように、イエス様の力が遠く離れた部下に及んで、治りますからという信仰が、百人隊長にはあった。彼は忙しかった中にあっても、神様と繋がろうとした、見えないチューブで繋がっていたことを八田與一や啄木の事を考えながら、空いた時間に何とつながるのか、
主の日だけでなく、できた時間に自分たちがイエス様と見えないチューブでつながるように感じたいと思いました。

私は一年前まで、台湾の日本人学校で教えていました。実際に行ってみて、生活してみて、キリスト教とのつながり、この地を造られた神様が、台湾でも働かれておられるという事を知り、シェアできたらと思います。

お話したいのは八田與一(はったよいち)さんという方の事です。八田さんは土木技師で台湾の南にある嘉南平原に烏山頭(うさんとう)ダムという大きなダムを造った人です。台湾の人達にとって日本に支配されていた50年は悲惨な時期でもありましたが銀行、道路などのインフラが設営されました。このダムのお陰で飢饉、水不足、病気がなくなり、一帯が肥沃な大地となり、感謝されました。ダム建設は高額な費用が掛かりますが、丁度日本で関東大震災が起きて日本からの送金が途絶えました。台湾の人達は先ずは自分たちが首を切られるだろうと思ったのですが、八田さんは将来ダムを使うのは台湾の人達だという事で現地の人達をほとんど解雇せずに日本人を多く解雇しましたので、台湾の人から信頼を得ました。

八田さんはクリスチャンではないですが、背後にはキリスト教の考え方があったと思います。
彼が東大で土木を学んだのは、内村鑑三と札幌農学校で同期だった廣井勇という人です。廣井勇が亡くなった時、内村はお葬式で「廣井勇は北海道の小樽港を造った、この廣井勇の信仰はまるでダムの様に橋の様に本当に強固なものだった」と述べたそうです。廣井勇の言葉があります。「もし、工学が人生を煩雑にするのみならば、何の意味もない。
これによって数日要する所を、数時間の距離に短縮し、一日の労苦を一時間にとどめ、それによって得られた時間で、静かに人生を考え、反省し、神に帰る余裕を与える事によらなければ、私達の工学は全く意味を見出す事は出来ない。」これを聞いた八田は、おそらく、自分たちがする土木工事というものは、本当に人の役に立たなければならない、
それに加えて、出来た時間が静かに神との関係に立ち帰っていかなければならないと廣井が伝えたかったことを受け止めたに違いないと思います。

廣井は真剣に、信仰に立って土木の技術を教えていたのです。そう考えると、八田與一が台湾でダムを造り、台湾の人達の事を考えて、功績を残したことが素晴らしいというだけでなく、この廣井勇の言葉から私たちは余った時間をどう過ごすべきか、という事を考えなければならないのだと思いました。

八田與一と一日違いで生まれた人に、石川啄木がいます。
彼は、働いても、働いても豊かにならなくて貧しい中でじっと自分の手を見つめます。
石川啄木の反応と八田與一の反応は全く逆です。啄木が見たのは自分自身、啄木は大変だったと思います。私達は働いてできた時間で自分自身を見るのではなく、神様を見ないといけないと思います。

マタイ8章の百人隊長の話をします。彼は隊長だったから、きっと忙しかったのだと思います。そんな中、部下の一人が病気で死にかけており、イエス様に「只一言治れとおっしゃって頂けたら、自分の部下は治ります」と言った。
たとえイエス様が部下から離れていても、あたかも見えないチューブでつながっているかのように、イエス様の力が遠く離れた部下に及んで、治りますからという信仰が、百人隊長にはあった。彼は忙しかった中にあっても、神様と繋がろうとした、見えないチューブで繋がっていたことを八田與一や啄木の事を考えながら、空いた時間に何とつながるのか、
主の日だけでなく、できた時間に自分たちがイエス様と見えないチューブでつながるように感じたいと思いました。

「迫害する者を愛せよ」ローマ信徒への手紙12章  濱田 淳(静岡県)

私の講話は新約聖書ローマ信徒への手紙12章です。
1節に「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」とあります。内村鑑三の本に「人生の目的は幸せになることではなく神に犠牲をささげることである。」と書かれているのを見たときに、この目的なら聖書の教えに近づいていけると思いました。神様の愛のように周りの人に接する。それはきっと自分をいけにえとしてささげなければ出来ないこと。私なりに、それが信仰だと解釈しました。

この12章には沢山の良い教えが書かれていますが、14節の「迫害するものを愛せよ。」
19節の「自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。」などは、私には日頃身の周りに常に起きている出来事に当てはまります。私も以前は、迫害する者には必ず復讐し、自分自らも迫害してきました。「迫害する者を愛せよ。」これが何よりも難しいことと思えます。

今から20年以上も前、聖書も読んだこともないころに、こんなことに遭遇しました。私の働いていた職場の同僚二人が
喧嘩をしました。二人は世間から見たら飲んだくれの世捨て人でした。彼等はお互いに敵だと思っていたと思います。
ところがその後、片方が仕事でピンチに陥り一人が助けるという場面がありました。
助けられた方は「ありがとう、ありがとう。」と言って、相手を見るその目には愛おしさが感じられました。

その光景を見た私は、「なんて人間の愛は素晴らしいんだ。」と思って忘れられませんでした。今から思えば、あの時の
彼等は神様の愛に応えたのだと思いました。私も日頃神様の愛に応えようと努力するのですが、なかなかできません。
職場で同僚に不都合なことを言われると、頭の中にはこの「迫害する者を愛せよ。」という言葉が浮かぶのですが、
心の中では相手を呪っています。信仰を持つ前と何も変わりません。決して周りの人にこの思いを知られないようにしています。

同僚達も互いに不満や敵意を持って仕事をしています。自分に不都合なことを言う人は敵で、その敵を憎むことを
同調してくれる人は味方だと、皆そのように思っているようです。私にもそのような同調を求める人もいますが、
そのような人には「敵を愛しなさい」と言いたいのですが言えません。言ったところで、単に変人扱いされて終わって
しまうでしょう。今の私にできるのは、周りの人に自分の敵を愛する姿を見せること。そして神様の愛に対して正義を
行っていくことです。

私の講話は新約聖書ローマ信徒への手紙12章です。
1節に「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」とあります。内村鑑三の本に「人生の目的は幸せになることではなく神に犠牲をささげることである。」と書かれているのを見たときに、この目的なら聖書の教えに近づいていけると思いました。神様の愛のように周りの人に接する。それはきっと自分をいけにえとしてささげなければ出来ないこと。私なりに、それが信仰だと解釈しました。

この12章には沢山の良い教えが書かれていますが、14節の「迫害するものを愛せよ。」
19節の「自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。」などは、私には日頃身の周りに常に起きている出来事に当てはまります。私も以前は、迫害する者には必ず復讐し、自分自らも迫害してきました。「迫害する者を愛せよ。」これが何よりも難しいことと思えます。

今から20年以上も前、聖書も読んだこともないころに、こんなことに遭遇しました。私の働いていた職場の同僚二人が喧嘩をしました。二人は世間から見たら飲んだくれの世捨て人でした。彼等はお互いに敵だと思っていたと思います。
ところがその後、片方が仕事でピンチに陥り一人が助けるという場面がありました。
助けられた方は「ありがとう、ありがとう。」と言って、相手を見るその目には愛おしさが感じられました。

その光景を見た私は、「なんて人間の愛は素晴らしいんだ。」と思って忘れられませんでした。今から思えば、あの時の彼等は神様の愛に応えたのだと思いました。私も日頃神様の愛に応えようと努力するのですが、なかなかできません。
職場で同僚に不都合なことを言われると、頭の中にはこの「迫害する者を愛せよ。」という言葉が浮かぶのですが、心の中では相手を呪っています。信仰を持つ前と何も変わりません。決して周りの人にこの思いを知られないようにしています。

同僚達も互いに不満や敵意を持って仕事をしています。自分に不都合なことを言う人は敵で、その敵を憎むことを同調してくれる人は味方だと、皆そのように思っているようです。私にもそのような同調を求める人もいますが、そのような人には「敵を愛しなさい」と言いたいのですが言えません。言ったところで、単に変人扱いされて終わってしまうでしょう。今の私にできるのは、周りの人に自分の敵を愛する姿を見せること。そして神様の愛に対して正義を行っていくことです。

「悔い改めよ」メタノイアとは何か マタイによる福音書4章17節 対馬 秀夫(青森県)

マタイによる福音書4章17節「悔い改めよ、天の国は近づいた」。神の子イエスの宣教の第一声です。「悔い改め」は
キリスト教の術語としては「神の恵みにより、罪の赦しを得るために、自分の罪を認め、それを反省して心を神に向き
変えること」とされています。

悔い改めはギリシア語の名詞では「メタノイア」と言います。語源からは、「心や思いの変化」と解されるようです。
しかし、このメタノイアをヘブライ語の「シューブ」、「向き変り、立ち帰り」、と解することは出来ないのだろうか。

原文は「悔い改めよ」、その次にガルという接続詞がついています。英語訳ではfor、岩隈直訳では「天の国が近づいているのだから」と訳しています。「悔い改め」メタノイアと「神の国の接近」は密接な関係がある。また、「近づいた」、
ここは現在完了形が使われていますから、すぐそこに、まさにあなたがたの近くに既に来ている、ということです。
これらのことはメタノイアが何を意味するにせよ、わたしたちにおいてメタノイアが始まり、意味を持つのは神の国の
接近、それとは意識されないにせよ神の側の行動がまずあるからなのです。

イエスの時代、イエスは同胞ユダヤ人の中に入って行った。そして呼びかけた。「よく聞きなさい」。小高い丘の上では「幸いだ、心(霊)において貧しい人たちは」また「わたしが来たのは義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。
今の時代においてもその通りなのだ。心と霊において貧しさを覚え、救いの光を求める魂は、あらゆる形での、聖霊の
キリストの呼びかけに気づき、求め始める。そのような魂は、すでに広い意味で、「過去の罪咎、過失、失敗を悔い、
自分の無力さを嘆き悲しむ魂」なのだ、と言っていいだろう。そして、イエスの神の国への呼びかけは、「まずわたしのもとに来なさい。罪咎あるままに。」

では、その時、罪咎の認識、悔いる心は、「放っておかれるのか」。罪びとであっても、なお有する良心に照らして、
そのことは問題にならないのか。けれども罪咎の認識は結局のところ、罪人自らの力ではその根源に近づき得ないのだ。聖霊のキリストは、イエス・キリストの権威をもって呼びかける。

「向き変れ、神の国は近づいたから」その方のもとに罪咎あるままに人は行くことが許されている。聖霊はその人々を
導き、そしてやがて神の子イエス・キリストを指し示し、啓示する。十字架と復活のイエス・キリストを。
その時、罪咎の裁きと同時に赦しが、新しい生・新しい命が与えられる。

マタイによる福音書4章17節「悔い改めよ、天の国は近づいた」。神の子イエスの宣教の第一声です。「悔い改め」はキリスト教の術語としては「神の恵みにより、罪の赦しを得るために、自分の罪を認め、それを反省して心を神に向き変えること」とされています。

悔い改めはギリシア語の名詞では「メタノイア」と言います。語源からは、「心や思いの変化」と解されるようです。
しかし、このメタノイアをヘブライ語の「シューブ」、「向き変り、立ち帰り」、と解することは出来ないのだろうか。

原文は「悔い改めよ」、その次にガルという接続詞がついています。英語訳ではfor、岩隈直訳では「天の国が近づいているのだから」と訳しています。「悔い改め」メタノイアと「神の国の接近」は密接な関係がある。また、「近づいた」、
ここは現在完了形が使われていますから、すぐそこに、まさにあなたがたの近くに既に来ている、ということです。
これらのことはメタノイアが何を意味するにせよ、わたしたちにおいてメタノイアが始まり、意味を持つのは神の国の接近、それとは意識されないにせよ神の側の行動がまずあるからなのです。

イエスの時代、イエスは同胞ユダヤ人の中に入って行った。そして呼びかけた。「よく聞きなさい」。小高い丘の上では「幸いだ、心(霊)において貧しい人たちは」また「わたしが来たのは義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。
今の時代においてもその通りなのだ。心と霊において貧しさを覚え、救いの光を求める魂は、あらゆる形での、聖霊のキリストの呼びかけに気づき、求め始める。そのような魂は、すでに広い意味で、「過去の罪咎、過失、失敗を悔い、自分の無力さを嘆き悲しむ魂」なのだ、と言っていいだろう。そして、イエスの神の国への呼びかけは、「まずわたしのもとに来なさい。罪咎あるままに。」

では、その時、罪咎の認識、悔いる心は、「放っておかれるのか」。罪びとであっても、なお有する良心に照らして、そのことは問題にならないのか。けれども罪咎の認識は結局のところ、罪人自らの力ではその根源に近づき得ないのだ。聖霊のキリストは、イエス・キリストの権威をもって呼びかける。

「向き変れ、神の国は近づいたから」その方のもとに罪咎あるままに人は行くことが許されている。聖霊はその人々を導き、そしてやがて神の子イエス・キリストを指し示し、啓示する。十字架と復活のイエス・キリストを。
その時、罪咎の裁きと同時に赦しが、新しい生・新しい命が与えられる。

有志による講話リレー感話会報告 小舘 知子(東京都)

●小舘美彦さん:対馬さんの話に非常に感動したんですけども、私のレベルをはるかに超えていてわからないような
感じがあって、悔い改めとはどういうことなのか、もう一回お聞かせ願えませんか。
→対馬秀夫さん:欧米のリペントという英語は少しおかしいのではないか。もともとマルコの言ったメタノイアは、
シューブなのではないかという事です。
→小舘美彦さん:イエス様のもとに立ち帰るという事ですね。ありがとうございました。

●石原潔さん:4人の方の話が興味深く心に響く話でした。
◇対馬さんのお話で一番印象に残ったのは、「自身の罪は赦された時に分かる」という言葉です。意味の深い言葉で、
私も本当にそう思います。呼びかけられたことによって立ち帰る、自分自身の力では立ち帰れない、という人間の深い
問題がそこにはあり、外からくる力、聖霊により頼むという姿が浮かび上がってくるのかなぁと思いました。
◇赤塚さんのダークマター、ダークエネルギーという宇宙の大部分の質量を占めるがまだ見えないものがあるという
お話、面白かったです。
◇那須さんのお話しでは、八田與一の事を教えていただきありがとうございました。インフラを造るというのは
台湾の人のためだけではなくて日本が資源を収奪するためもあった。しかし、そういう大きな構造の中にありながらも、信仰に基づいた広井さんの言葉が八田さんを通して生きていくという事でした。この話と、濱田さんのお話しには非常に共通するものがあると思います。
◇濱田さんのお話は、職場での不満と復讐の思いの中でどのようにふるまうかというものでした。
どちらも大きな構造の中に巻き込まれながらも、その中でクリスチャンの役目、地の塩となって溶け込んでいき、
自分の姿が無くなってしまうけれども、信仰が生き残るという話として受け取りました。

●宮田咲子さん:複数の方の話を聞くというスタイルは初めてでしたが、聴けて良かったです。濱田さんの、ロマ12:1「自分の体を神に喜ばれる聖なる活けるいけにえとして捧げなさい」という言葉からキリスト信仰とは自分を神に捧げることなのだと腑に落ちた、という話が心に残りました。

●小舘美彦さん:対馬さんの話に非常に感動したんですけども、私のレベルをはるかに超えていてわからないような感じがあって、悔い改めとはどういうことなのか、もう一回お聞かせ願えませんか。
→対馬秀夫さん:欧米のリペントという英語は少しおかしいのではないか。もともとマルコの言ったメタノイアは、シューブなのではないかという事です。
→小舘美彦さん:イエス様のもとに立ち帰るという事ですね。ありがとうございました。

●石原潔さん:4人の方の話が興味深く心に響く話でした。
◇対馬さんのお話で一番印象に残ったのは、「自身の罪は赦された時に分かる」という言葉です。意味の深い言葉で、
私も本当にそう思います。呼びかけられたことによって立ち帰る、自分自身の力では立ち帰れない、という人間の深い問題がそこにはあり、外からくる力、聖霊により頼むという姿が浮かび上がってくるのかなぁと思いました。
◇赤塚さんのダークマター、ダークエネルギーという宇宙の大部分の質量を占めるがまだ見えないものがあるというお話、面白かったです。
◇那須さんのお話しでは、八田與一の事を教えていただきありがとうございました。インフラを造るというのは台湾の人のためだけではなくて日本が資源を収奪するためもあった。しかし、そういう大きな構造の中にありながらも、信仰に基づいた広井さんの言葉が八田さんを通して生きていくという事でした。この話と、濱田さんのお話しには非常に共通するものがあると思います。
◇濱田さんのお話は、職場での不満と復讐の思いの中でどのようにふるまうかというものでした。
どちらも大きな構造の中に巻き込まれながらも、その中でクリスチャンの役目、地の塩となって溶け込んでいき、自分の姿が無くなってしまうけれども、信仰が生き残るという話として受け取りました。

●宮田咲子さん:複数の方の話を聞くというスタイルは初めてでしたが、聴けて良かったです。濱田さんの、ロマ12:1「自分の体を神に喜ばれる聖なる活けるいけにえとして捧げなさい」という言葉からキリスト信仰とは自分を神に捧げることなのだと腑に落ちた、という話が心に残りました。

目次